人間の成長は人からではなく、「自らの気付き」でしか成長できない
人間の成長は人からではなく、「自らの気付き」でしか成長できない
ものごとを伝えるには、タイミングを計る
人は外からの重圧では変わることは出来ないもの
どんなに、一生懸命、愛する人に一千語を費やしても、
相手にその準備が出来ていなければ、心のどこかに、
「ウルセーなあ…」という感情が沸き起こっていることが
多々あります。心に、自らへの<気付きスイッチ>が
入っていない状況です。
だから、ものごとを伝えるには、タイミングを計る
という要素が非常に大切になります。
時には、敢えて失敗させ、その状況にタイミングを合わせ
愛ある伝え方をすると、効果的なことがあります。
ある裕福な家庭は、小学生の女の子が不登校になりました。
親の優しい愛に飢えている状態にもかかわらず、その母親は
不登校のその子供を家に残し、いつも平気で外に長時間、
習い事や私用で出かけてしまいます…。
父親は「仕事だから」という建前で、現実を直視しようと
せず、家庭の関係を修復しようというところからいつも
逃げようとしています。
周囲の親族は将来を考え、一生懸命にこの両親を諭すのですが、
「余計なお世話!」と聞く耳を持ちません。
やがて、子供の家庭内暴力、リストカット、非行、刑事事件…
への危惧。
こういう事例は結構多いと思います。
「私がこうなったのも、あんたたち親がもっとチャンと
私を見てくれていたら、こんなことは起こらなかったのよ!」
と、本当に淋しい心を親に涙ながらに訴える子供…。
こうした事態に直面してから、ようやく、親は自分たちの
愚かな行為を振り返り、「気付き」が生まれます。
子供はただ純粋に、親の愛が、スキンシップが足りないことへの
淋しさから、こうした行動に出ることが多いものです。
相手を説き伏せる「正論」より感情を聞き出す「相手視点論」
また、こうした場合、人間関係を修復するにあたり、多くは
「正しい」「正しくない」の論法を振りかざすことで、
かえってこじれてしまうことも少なくないですが、
正論法より、「ねえ…なぜそれをやりたかったの?」
という問いを投げかけてあげることで、
結構相手の本音が出てくることがあるものです。
毎日、日々起こる出来事の中、
ことの重大さに発展する前段階の、<小さなシグナル>は
必ずいくつも発生しているものです。
せっかく、心配し、周囲が提言している言葉に、
安っぽい自分のプライドを重視するばかりに、聞く耳持たず、
事が手遅れになることは、頻繁にあること。
少し話しは脱線しますが、日本語としての意味では、
「プライド」と「誇り」とはその意味は異なるような気がします。
「誇り」には自分の生き方への人生軸がきちんと構築されている
響きが伝わってきます。理念がきちんとしている観があります。
「プライド」は、自分の欲望を守りたいことから起こる、
感情的アピールに近いものが感じられます。
きちんとした生き方の軸が出来上がっていませんから、
いつも感情的な判断をしてしまい、その答えは
本質から大きく外れるブレだらけになるわけです。
自分の要望から起こる感情的利益を優先させてばかりいると、
「自分中心視点」になりますから、いつも周囲との軋轢が生まれる
ことが多くなります。
「自分中心視点」に入っている人は、「自分を認めてもらえない」
「愛が足りない」という感情飢餓感から
このような感情行動に移りやすいことを自覚すべきです。
こういう場合は、人間愛について書物等も含め、
良く掘り下げて研究していくと、自分の愛への飢餓感が
客観的に眺めることができ、冷静に行動がとれるようになれます。
そうすると、素直な心の価値感が
いかにすごいものかが理解できるようになれるのではと感じます。
この二つが、取り返しの付かない状況を止める、
大きなコツといえます。
「てやんでーバカヤロー!」という視点
からは、なかなか今の場を変えるチャンスは生まれないことを
自覚し、自分がなぜそういう気持ちになってしまうのか
掘り下げて考えてみると、案外、良い展開へのヒントが
生まれます。
生きていく上で、人間に能力の差なんて、
それほどあるものではないと思うのです。
ちょっとした視点の差。価値感の差…。
「素直さ」と「相手視点」。
もう一度、振り返ってみて欲しいものです。